FAZER LOGIN◇
「へえ。随分と大層な動機だこと」
白亜は回転椅子をクルリと回し、大理石のカウンターの上に転がっていた黒いカードを、爪先で弾いた。「でもさ、白スーツ。あんたのその精密機械みたいな実験室、さっきから足元が微かに震えてるよ。……お姉さんの魂をいじる前に、もっと別の、すっごく怒らせたら怖い『黒い塊』が、このビルの真上まで来ちゃってるみたいだけど?」 白亜の淡い瞳が、限界まで細められ、天井の面発光の照明へと向けられた。 瞬間。 ドクン、と。 部屋全体の床が、文字通り、腹の底に響くような重低音の脈動とともに、大きく一瞬だけ上下に揺れた。 長机の上に置かれたガラスのシャーレが、チリンと高い音を立てて微かに位置をずらす。「……ほう。竜種の嗅覚というものは、こちらの遮蔽結界をこうもあっさりと突破してくるものですか」 ヴィクトルは眼鏡の奥の瞳を僅かに眇め、天井を睨みつけた。 部屋全体の面発光の照明が、ジジジ普通の未来。 有栖川の屋敷の、あの隙間風の入る暗い屋根裏部屋で、冷たい床を磨きながら、ずっと夢見ていた景色。 誰からも怒鳴られず、誰の顔色を窺うこともなく、ただ小さな町で、近所の子供たちに大好きなピアノの音を教えながら、静かに、穏やかに年を重ねていく。そんな、ありふれた温かい日常の風景。 ヴィクトルの言葉は、冷え切った脳髄の奥底へと、甘い蜜のように染み込んできた。 もし、私からこの厄介な力がなくなれば。 黎はもう、私に触れる恐怖に怯えて、暗い部屋の片隅で手を震わせる必要はなくなる。あの痛ましい、気管が詰まったような苦しげな呼吸からも、永久に解放される。あのペントハウスの、空っぽになった鳥籠の扉が、もう一度、今度は本当の家として開くかもしれない。その未来に、一瞬だけ心が揺れた。逃げたいわけではないのに、もう痛くない場所へ行きたいと思ってしまった自分を、すぐには責めきれなかった。 けれど。 視線が、大理石の床の上に広がる、赤黒い液体の染みへと引き寄せられた。 ◇「が……はっ、げほ、ォッ……!」 部屋の入り口、崩れ落ちた天井の残骸の真ん中で、漆黒のウールコートを纏った巨体が、再び激しくむせ返った。 黎は床に両手を突き、前傾した姿勢のまま、濁った血を何度も床へと吐き出している。長い銀髪は泥と汗でべったりと顔に張り付き、その隙間から覗く肌は、無菌室に充満する濃縮瘴気によって、みるみるうちに青黒く変色していく。 逞しい腕の筋肉は、見えない強烈なシールドの圧力に対抗しようとして、破れそうなほどの密度で隆起し、硬い革靴の先で大理石の床をガリガリと掻きむしっている。 一センチメートル、前に進むたびに、黎の首筋の黒い鱗が、ミシリ、ミシリと不吉な音を立てて引き千切られ、そこから生温かい血が滴り落ちていく。「黎様……っ」 喉から、押し殺したような声が漏れる。 これほどまでに傷つき、ボロボロになりながらも、あの人の黄金色の瞳は、一度としてこちらから視線を外そうとはしなかった。 針のように細く割
大理石の床を踏み締める靴の裏で、砕け散ったプラスチックの微細な破片がジャリッと硬い音を立てて潰れた。 膝の関節を一本の棒のように突っ張り、どうにか上半身を垂直に保つ。ウールコートの重みが、今の水分を失いかけた身体には濡れた砂袋みたいに重くのしかかってくる。 肺の奥に吸い込まれる空気は、どこまでも軽くて冷たい。埃の一粒すら存在しない完璧な無菌状態のはずなのに、肺胞の隅々にまで冷たいガラスの針を突き刺されているかのような、異質な痛みが呼吸のたびに肺の底を走った。 ピッ、ピッ、ピッ、という室内の警告音は、次第に間隔を狭め、ついには耳の奥を劈くような連続した高音へと変わっていく。「素晴らしい。有栖川の地下牢で観測した数値を、すでに二倍以上も上回っている。あなたの魂の容量は、私のシミュレーションを遥かに超えて、今なお外側へと膨張を続けている」 ヴィクトルは制御パネルの前に直立したまま、眼鏡の奥の薄青い瞳を限界まで見開いていた。完璧な左右対称の微笑みは、照明の強烈な白さを浴びて、大理石の彫刻のように冷たく張り付いている。 長い指先がタッチパネルの表面を滑らかに滑るたびに、部屋の中央にある金属製の装置が、ウィィィィンという鼓膜を直接引っ掻くような駆動音を一段と高く鳴り響かせた。 透明なガラス管を流れる気泡の速度が跳ね上がり、床から伝わる細かな振動が、足の裏から太もも、そして腰の骨へと、じりじりと痺れるような感覚を伝えてくる。 右手首の皮膚の下。 薄紫色に変色して浮かび上がっていたあの管の網の目が、装置の回転に呼応するようにして、熱を持ったようにドクドクと不気味な脈動を刻み始めていた。指先から爪の先にかけて、急速に感覚が消え失せ、冷たい大理石の白さの中に、自分の手のひらだけが血の気を失って浮いているように見える。 身体の内側から、温かい熱の塊がストローで吸い上げられ、あの金属の箱の中へと強制的に注ぎ込まれていくような、強烈な枯渇感。「瀬理亜さん、そのままそこにあるシートへ歩きなさい。あなたのその素晴らしい波形を、安定した触媒へと定着させるのです」 ヴィクトルは、長机の上に置かれていた古い祖母の手記を片手で閉じ、こちらへ向かって真っ直
喉から、かすれきった、けれど絶対的な地鳴りのような響きが漏れる。「俺の、傍に……いろ、と言っただろう……っ。お前が、消えるくらいなら……この街ごと、すべて……」 黎の右手の鉤爪が、床の大理石を深く抉り取る。 彼は、自分の身体がどれほど瘴気に焼かれようとも、その強固な意志の力だけで、見えないシールドを内側から押し破ろうとしていた。黎の身体から立ち上る熱気が、周囲の澱んだ空気を微かに焦がし、白い壁面にピキピキと細かい亀裂を走らせる。「無駄な抵抗はやめなさい、御影黎さん」 ヴィクトルは眼鏡の奥の目を冷酷に細め、レバーをもう一段、下へと叩き落とした。「あなたのその強すぎる個体値は、実験のノイズにしかならない。……これ以上の暴走を続けるなら、彼女の魂の抽出速度を最大に引き上げる。彼女が完全に干からびて灰になるのが先か、あなたがそこでのたうち回りながら息を止めるのが先か、試してみますか?」 ウィィィィンという、鼓膜が破れそうなほどの凄まじい高音が室内に充満する。 胸元の痛みが一気に跳ね上がり、呼吸の仕方が完全にわからなくなった。(……私が、ここにいるから) 大理石の床に額を押し付けたまま、浅い、途切れがちな呼吸を繰り返す。 私が、ただ守られるだけの酸素マスクとして、あの部屋の隅で他人の顔色ばかりを窺っていたから、あの人はこんな場所まで追いかけてきて、自分の肺をボロボロにしているのだ。 有栖川の屋敷でも同じだった。お父様や理恩様に腕を掴まれ、無理やり車に押し込まれるのを、私はただ怯えて見ていることしかできなかった。 誰かの役に立たなければ、捨てられる。 誰かの言う通りに動かなければ、自分の居場所はなくなる。 そうやって自分を後回しにしてきたことが、私をいつも受け身にして、周囲の身勝手さを許してしまっていた。(……もう、そんなの、絶対に嫌だ) 手のひらに、力を込める。
「白亜ちゃん!」 手を伸ばそうとするが、手首の薄紫色の管が、装置の回転速度の上昇に合わせてさらに強く生命力を吸い上げにかかる。 ウ、と喉元で短い呻きが漏れ、再び大理石の床へと顔を伏せるしかなかった。 視界の端で、ヴィクトルは白いスーツの汚れを払うような仕草をしながら、ゆっくりと長机の前に戻ってきた。彼の歩みには、一切の焦りも乱れもない。目の前で誰が苦しんでいようと、ただ予定通りの実験手順が進んでいるだけだと、本気で信じているのだろう。「竜種という生き物は、いささかその個体の出力が大きすぎる。だから、周囲の環境を自分に合わせて変えようとする。……ですが、それは環境を完全に管理されたこの箱の中では、ただの無駄なエネルギーの垂れ流しでしかないのです」 ヴィクトルは、長机の上に置かれていた古い手記――祖母の手帳を再び長い指先でめくり始めた。「この手記の記述通り、あなたたちの熱は、効率的に抽出されるべきだ。瀬理亜さん、あなたのその魂の波形を安定させるためにも、早くそこにあるシートへと移動していただきたい」 ヴィクトルの薄い唇が、完璧な形を保ったまま、次の命令を紡ぎ出す。 その声には、人間の持つべき温度や情の欠片など、やはり一ミクロンも含まれていない。 ◇ ガリッ、ガリガリッ……。 静まり返った部屋の床から、硬い爪が石の表面を削り取る嫌な音が、等間隔の警告音に混じって響いてきた。 どうにか顔を傾け、その音の出処へと視線を向ける。 黎が、両手を大理石の床に突き、這いつくばるような姿勢のまま、こちらに向かって一センチメートルずつ身体を前へと進めていた。 彼の漆黒のウールコートは、床に散らばった大理石の粉塵で白く汚れ、逞しい腕の筋肉は、見えない鎖を無理やり引き千切ろうとするかのように、破れそうなほどの密度で隆起している。 首筋の黒い鱗の隙間から、赤黒い、どろりとした血液がとめどなく溢れ出し、白い床の上にいくつもの汚い染みを作っていく。「が、はっ……げほォッ!」 黎は大きくむせ返り、床の上
「黎、様……っ、だめ……離れて……っ!」 床に額を擦り付けるようにして、必死に声を絞り出す。 しかし、喉がカラカラに乾ききっており、まともな音になって届かない。 黎は血走った黄金の瞳を限界まで見開き、這いつくばる姿をその網膜に捉えていた。彼の首筋から頬にかけて、黒く、金属のような鈍い光沢を放つ硬質な鱗が、皮膚を突き破るようにしてびっしりと浮かび上がってくる。「せ……り、あ……ッ」 地底の奥深くから響くような、重低音の咆哮。 黎は伸ばそうとした右手の指先を、鋭く湾曲した漆黒の鉤爪へと変態させ、空中に向けた。掴み取ろうとするように、引き寄せようとするように、細かく震えるその手。 だが、彼が一歩前に進むたびに、四方から押し寄せる見えない圧力が、その巨大な筋肉の起伏を力任せに押し潰していく。黎の硬い革靴の先から、大理石の床に向かって、ミシリ、ミシリと細かい霜が広がり、直後、その霜が黒い煤へと変色してパラパラと灰になって消えていった。 黎の持つ強大な生命力の熱そのものが、この部屋の特殊な空調システムによって、強制的に外側から奪い取られ、装置の中へと吸い込まれているのだ。 ◇「ノワールをそこまでコケにして、私が黙って見てると思ってたら、大間違いだよ!」 激しい風切り音とともに、銀色の長い髪が光の矢となって空間を裂いた。 白亜が床を強く蹴り、ヴィクトルの立つ障壁の向こう側へと、弾丸のような速度で飛びかかっていく。彼女の両腕はすでに完全に白い鱗に覆われ、黒曜石のように鋭い鉤爪が、ヴィクトルの顔面を狙って容赦なく振り下ろされた。 ギィィィィンッ!!! 耳の奥を直接針で刺すような、金属同士が激しく摩擦する甲高い高音が室内に爆発する。 ヴィクトルが展開した青白い障壁の表面に、白亜の爪が深く食い込み、そこから激しい青い火花が幾重にも弾け飛んだ。「ほう、さすがは白竜の血筋。この減圧状態の中でも、それだけの質量を維持できるとは。非常に興味深い耐久性だ」
その時だった。 頭上から響いていた地鳴りのような重低音が、限界まで張り詰められた弦が弾けるような甲高い破砕音へと変わった。 真っ白な面発光パネルの隙間から、一筋の巨大な亀裂が走り、直後、爆発的な風圧とともに天井の構造物が一斉に大理石の床へと降り注ぐ。真っ白なプラスチックの破片とスチールの骨組みが激しい音を立てて砕け散るその真ん中に、凄まじい熱量を帯びた漆黒の塊が滑り込んできた。 黎だ。 ウールコートの裾は雨と激しい動きで無残に引き裂かれ、シャツの第一ボタンは引き千切られたまま、太い首筋が露わになっている。長い銀髪は乱れて顔にへばりつき、その奥で光る黄金色の瞳は、怒りのままに周囲の白い空間を射抜いていた。 床に落ちた天井の残骸を硬い革靴の底で踏み砕き、一歩、前に踏み出そうとする。 しかし。 タン、と靴底が大理石に触れた瞬間、黎の大きな身体が、まるで目に見えない厚い壁に正面から激突したかのように、その場でピタリと停止した。「……っ、が、は……ッ!」 押し殺したような、ひどく掠れた悲鳴が太い喉から漏れ出る。 黎は即座に右手を胸元へと持っていき、シャツの生地が限界まで引き攣るほどの強い力で自らの左胸を掻きむしった。身長百九十センチを超える巨体が前傾し、膝の関節がガクガクと不自然な震えを刻み始める。 ゼイ、ゼイ、と、喉から鳴り響くのは、引き裂かれた蛇腹の管が擦れ合うような、痛々しい喘鳴だった。気管が完全に狭窄し、肺の水分がすべて一瞬で蒸発していくかのような、乾いた、重苦しい呼吸のノイズ。「おやおや。思ったよりも野蛮な方法で侵入してきましたね、御影黎さん」 ヴィクトルは制御パネルの前に立ったまま、完璧な左右対称の微笑みを崩さずに、眼鏡のブリッジを長い指先でそっと直した。彼が新しく押し込んだ黒いスイッチの周囲で、細かな緑色のインジケーターが、生き物の脈拍のような速度で激しく点滅している。「この部屋の空気には、あなたが最も嫌う成分……人間の悪意や強欲を結晶化させた、濃縮瘴気フィルターが作動している。有栖川の奈落に溜まっていた古
「同じことだ!」 黎が両手で、自らの銀髪を乱暴に掻きむしった。「俺がもっと早く、あのふざけた屋敷のすべてを塵にしていれば済んだ話だ。俺の力が足りなかった。俺の、認識が甘すぎた。……お前が、俺に触れるたびに、笑いかけるたびに……少しずつ命を削っていたなんて、思いもしなかった」 黎の黄金色の瞳が、苦痛に歪んで細められる。「俺は……俺の呼吸のために、これまで数え切れないほどのものを踏み躙り、破壊して生きてきた。他者がどうなろうと知ったことではなかった。だが&hel
叱りつけるような口調。けれど、声はひどくかすれ、音の端々が微かに震えている。「水……もらえ、ますか……」「……あ、ああ。待っていろ」 黎は弾かれたように動き、サイドテーブルに置かれていたガラスのコップを手に取った。 氷が再び、カランと澄んだ音を立てる。 ベッドの縁に腰掛けた黎が、コップの縁をゆっくりと口元へ運んでくる。 上半身をわずかに起こそうとすると、後頭部から背骨にかけて、鉛を流し込まれたような重い痛みが走った。シーツを握りしめ
「そんなガラクタはどうでもいい! お前、身体が……何だ、これは。冷たすぎる。おい、瀬理亜!」 黎の大きな掌が、おでこや頬を何度も触る。 熱が、心地よいというよりも、今の身体には強烈すぎて意識が飛びそうになる。肌の表面は氷のように冷え切っているのに、身体の内側からは、恐ろしいほどの高熱がじわじわと湧き上がってきているのがわかった。脳の奥がズキズキと痛み、呼吸をするたびに、喉が焼けるように熱い。「……お前、自分の命を、どれだけ削った……」 黎の声が、細かく震えて
「……三歩だぞ」「わかっています。離れませんから」 応接室の重苦しい空気を背に、二人は部屋を後にした。 ◇ 地下へと続く樫の木の扉は、以前よりも多くの南京錠で厳重にロックされていた。 けれど、黎が細い指先でその真鍮の錠前に軽く触れただけで、金属は熱したバターみたいにドロドロと溶け落ち、床へと滴り落ちた。 開け放たれた扉の向こうから、ヒヤリとした、湿った冷気が這い上がってくる。 埃と、カビと――そして、有栖川家が数世代にわたって蓄積してきた、呪いのような淀んだ空気。







